團:今日のお話たいへん面白く伺いました。古墳時代というと、日本人が最も高身長だった時期だということが当時の人骨からわかっていますね。
西川:そうですね。
島田:大和朝廷の時ですよね。
團:それで、古墳時代の半ば頃に「空白の 4世紀」と呼ばれる時期があったと言われたりしますよね。『魏志倭人伝』では、卑弥呼が魏に遣いを出したりしていたといったことが記録されているわけですが、そのあと4世紀間にわたって途絶えると。そのタイミングのほうに大陸のほうで何が起こっていたかというと、中国大陸や朝鮮半島がいわゆる五胡十六国になって、いわゆる漢字で残す相手が魏以降、魏の後は晋という国になるんですけれども、それが八王の乱という晋の内乱で、騎馬民族を華北に引き入れる結果を招いたんですね。そのとき日本はいわゆる古墳時代で、前方後円墳以外にも円墳や方墳まで含めると16万基もの古墳が作られていたわけですが、江戸末期までの歴史を振り返ってみると、その頃に最も日本人の身長が高かったようです。もちろん、明治期に食文化が西洋化してからは再びグーッと伸びて、今は平均身長は上がりっぱなしなんですけれども。この話というのはすごく面白いなと思っているんです。
西川:そうすると、日本語のルーツも古墳時代にあると考えていいんでしょうかね。
團:そうですね、華南からの弥生人の流入による古代の閩南語が倭語に取り入れられた時期だと思います。いわゆる縄文から弥生になった紀元前1000年頃(この時期については諸説ありますが)に、いわゆる高床式の建築物と稲作農業が入ってきたわけですが、その伝来ルートについては4つの説が考えられると言われているんですね。長江の上流の雲南やチベットのあたりから長江沿いに、要するに上から畑作農耕民に圧迫されて東へ東へと進んでいき、そこから渡海した人たちについて、その後進んだルートとして4つくらいのパターンが考えられると。1つには、長江から台湾を経て米とともに入ってきたという説で、それは常緑照葉樹林帯とだいたい一致しているということを言う人が多いですね。
つまり、長江をずっと東に下るんですけれども、一番下が台湾経由で、その上が、まぁ当時上海という地名はなかったですが、だいたい上海あたりから九州のほうに入ってくる。それで、4番目のルートっていうのが非常に不可解です。要するに黄海・渤海沿岸からグーッと上に上がって、そうすると万里の長城の切れ目があるんですね。長城の切れ目というか、渤海湾あたりですね。それで、逆戻りして朝鮮半島の東から南下するわけです。江上波夫先生の騎馬民族説だったり、いろんな方の学説を見ていて、朝鮮半島内陸の陸地伝いに移動がなされていたのかと思っていたんですが、いわゆる五胡十六国のときに亡命した人が相当、南の米を持ち込みながら、船で海を渡ってやってきていた可能性もあるのかもしれません。いわゆる海人族と呼ばれる人たちは渡船業をやっていた人たちで、最初は縄文から弥生になったタイミングで、長身の騎馬民族を間欠的に運んだのではないかと思います。
島田:徐福ね。
團:そうです。あれは単なる突発的な物語ではなく、そうした人流の一現象と連動していると思います。ではなぜその当時の南中国の方言が日本語に置き換わらなかったのかという話も、古代史上の謎の1つとされています。それは母集団がある程度、まぁ10とすると毎年 1くらいの人たちが閩越から稲作を持ってきて、土井ヶ浜遺跡のように戦って戦闘状態になったこともあるし、融合したこともあるといったかたちで徐々に流入していったからなのかと。全国で最も多くの前方後円墳が存在する千葉県では縄文と弥生の遺跡は割とすぐ隣合わせで並存していて、500〜600年間はずっと共存していたことがわかっています。
西川:それはそうかもしれない。ヤムナなんていうのは馬車の文化で、ダーッと入っていけるわけですよね。しかしそれは基本的に日本ではほとんど不可能で、だから今おっしゃったように、ちょこちょこやってくるしかない。だから、どれだけ文化的に優秀な人々であっても、それが元いた人々を駆逐するという構造を取りにくいというのはあったかもしれません。
團:しかし、なぜ高身長になったかということを考えると、1人2人程度の交雑では説明がつかないわけですよね。やはり、難民として稲作がある程度の規模を持った集団によって持ち込まれて、残土処分の意味合いもあって16万基もの古墳が造られるようになったのではないかと。おそらくはまず奈良のあたりで、奈良湖を干拓してできた湿地帯で稲作農法が実践されて、それで大和周辺で王権が出てきて、東へ東へと稲作が広がっていったんじゃないかと思います。日本神話にはやはり稲作と絡むエピソードも多いんですよね。「蹴裂き」といって、ヤマトタケルが土地を穿って水田を作って、地元の姫と結ばれたなんて話もあったりして。
あと、実は古墳は日本だけにあるわけでは全然なくて、ブルガリアとかあのあたりでも、カザンラクの墳墓といった似たようなものが、数は少ないものの出てきているんですよね。ただ、中に見られるものは全然違う。日本の場合、九州の熊本あたりの古墳を見ると、石室内部に描かれているのって、いわゆるネイティブアメリカンが描くみたいな三角形の紋様を組み合わせた図だったり、要するに漢字は基本的に出てこないんですね。時代が降ると唐代の美人が描かれるようになったりするんですが、それまでは漢民族的なものは全然見られないんですよね。
西川:そうすると、漢字に置き換わる以前に、オリジナルな文字もあったんですかね?
團:阿比留草文字とか、そういうことを言っておられる人もいますよね。僕はちょっと詳しくないんですけど。文字があったのかどうかを知るには、もうちょっと古墳の調査が必要ですよね。ただ、重要だと思われているところは、どこも宮内庁の管轄になっているから調査が進められないんですよね。
西川:そうなんですよね。
島田:北方にも古代神字とか、漢字じゃない文字があるなんて言われていますけど、ほぼ伝説というかなんちゃってというか、みたいな扱いですよね。今も調べられてはいますが。あれを本格的に調べても面白いかもしれないですよね。
團:石室内部の文様を見る限り、どちらかというと環太平洋、要するにマオリからずっと火山帯を辿ってインディオにまで至る地域で見られる文様と、ものすごく似ていますね。あと、雲南の古いパッチワークや台湾の少数民族のパターンともよく似ている。環太平洋アジア文化圏があったのではないか。そして、倭国はそのリングと中華文化圏の接点にあったのです。
波頭:弥生とそれ以前のアイヌ系の文化って、文様の基本パターンが全然違いますよね。
團:そうですよね。
西川:縄文ですね。
島田:土器も全然違いますしね。
徐福に関しては、司馬遷の『史記』に伝説として残っているんですが、1980年代の初めに徐福の出身地とされる村が見つかって、「徐福は実在した」と中国史ではなっていますよね。
波頭:やはり福建省のあたりですか?
島田:もっと北なんですよ。青島のほうです。
波頭:そんなに北なんだ。
團:山海関とかあの辺から出て、ということですよね。徐福と共にきた青年たちは北方系の高身長だったはずです。
島田:まぁ海辺ですね。それで、その記述によれば、大体3,000人の移民が、始皇帝の暴政から逃れるために大船団を組んだとあるんですね。3,000人というと、古代だとかなりの人口の流入です。それが縄文時代に日本に移民してきて、そこで交雑が起きたとすると、身長も変わるでしょう。徐福の話なんかも、ゲノムで辿っていけたら面白いですよね。
西川:実際に中国はそういった研究を今ものすごく盛んにやっていますよね。日本でもポツポツとながら、これまでの学説の矛盾を明らかにする、ゲノム分析をベースとした発見がなされています。ペーボさんたちが開発した手法やらなんやらを用いて、とにかく1回はゴリゴリやってみて何か見つかるか試してみよう、ということでいろいろやられていますよね。