波頭 ここまでの皆さんのプレゼンで、現在の資本主義や善きことに対する懐疑、その一方で資本主義や市場主義はそんなに悪いものではないという話が出ました。
そこで私は日本構想フォーラムのメインテーマでもあるのですが、現代において技術的革新であった産業革命と並んで、社会を豊かにしてきた2つの社会運営テクノロジーについて話したいと思います。
化石燃料の活用が人類を飛躍的に進歩させましたが、同じように18世紀以降、人類を飛躍的に進歩させてきたのは、⺠主主義と資本主義という2つの社会運営テクノロジーであると考えてみました。
その⺠主主義と資本主義が今日、ともに機能不全に陥っている──。それが現状認識です。1970年代から始まった新自由主義によって、世界の経済やウエルフェア(福利)は一気に広がったように見えます。しかし、ここ10年くらいを見ると、明らかに社会的な格差と分断が相当なレベルまで深刻化してしまっています。
特にアメリカや日本を見ると、過半数の人々の実質的な豊かさは著しく停滞しており、もはや新自由主義も賞味期限が切れたという様相です。
振り返ると、20世紀以降、今なお猛威を振るっている「経済合理性至上主義」によってこの社会は運営されてきました。何か2つの選択肢があった時、どちらが善き選択かと言うと、それは経済合理性によって判断されることが圧倒的に多くなっています。
この状況から想起されるのは、やはりマルクスの言説です。資本主義の経済システムの中においては、一人一人の人間は資本発展のための部品であるという話です。さらに、ここ20年くらいを見ると、資本合理性が⺠主主義による社会的な制御も凌駕してしまっています。
そもそもケインズは「経済学は本質的に道徳学であり、自然科学ではない」と語っています。また、神の見えざる手で有名なアダム・スミスも経済のベースとして道徳学(『道徳感情論』)を著わしていますが、まさに今の時代は道徳が強く問われなければならなくなっていると思います。
実際のところ経済は、経済合理性だけで判断しても大丈夫なのか?というスミスまで遡る課題が今、再浮上しています。そして、もう一つ再浮上した課題と言えそうなのが、ロベルト・ミヘルスが提唱した寡頭支配の鉄則という概念です。
寡頭支配の鉄則とは、どんな体制、イデオロギーであろうが、個人や特定集団に権力が集中すると、必ず腐敗に帰着するという鉄則です。それはきっと人間という生き物の本能なのでしょう。
この寡頭支配の概念を分析的に捉えたのが、マックス・ウェーバーです。ウェーバーは官僚制における合理性の限界について、局所局所での専門性による部分最適は全体最適から逸脱していくと語っています。
ここ20年くらいの時代を見た中で、非常にがっかりしたことがあります。それは何かというと、チュニジアで起きた⺠主革命(2010年のジャスミン革命)のときも、やはりそうなったかと思ったのですが、すべての革命は保守反動の前触れであることです。
つまり⺠主革命が起きた国はその後、状況がさらに悪化(締め付け)していくのです。⺠主革命のご本家とも言えるロシアの場合も、元々は帝政からボリシェビキ(社会⺠主労働党)による社会主義革命だったはずです。しかし、結果はソ連という帝政時代よりも苛烈な人⺠支配体制になってしまった。
スターリニズムに帰着したソ連も、チュニジアのジャスミン革命もそうですが、共産主義や社会主義など、平等を唱えて作り上げられた社会こそ、より苛烈な人⺠圧迫の方向に流れています。中国の文化大革命も、中国共産党も、ポルポト政権も同様です。
独裁による支配が人間社会の性なのかもしれません。しかし、あらゆる社会体制の中で、ベストではないが、ベターな体制が⺠主主義と市場主義である──。それが18〜20世紀に人類がたどり着いた、社会運営における豊かになる法則でした。
この法則が⻑らくうまく機能してきたのですが、しかし今、⺠主主義は機能不全に陥り、そして市場経済の暴走は止まらないという危険な状況になってしまっています。
官僚制がある種、健全でみずみずしかった時代までは、⺠主主義も市場経済も機能していたのですが、資本という化け物が、どんどん大きくなるにつれ機能不全に陥って行ったのです。その転機となったのが、1991年のソ連崩壊だったと私は見ています。
東⻄冷戦の時代、アメリカの大企業はみなソ連みたいになってはいけないと労働分配率を気にして従業員への分配を厚くしていました。
1960年代までアメリカはゴールデンエイジと呼ばれる時代でしたが、その当時、社会が共産主義になると、人々が豊かに暮らすための大事なものが失われるという感覚が確かにあったのです。