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転換期を迎えた4つの方法論:揺り戻しかアウフヘーベンか

キーノートスピーカー
波頭亮(評論家)
ディスカッション
波頭亮、島田雅彦、神保哲生、西川伸一、茂木健一郎、山崎元

ディスカッション

波頭 多くのエニグマ(謎)に対して、我々の知性が試されているという茂木さんの問題意識と、私の問題意識は本質的には非常に近いかもしれません。

西川 先ほど理性主義、科学主義の閉塞という話が出ました。しかし、科学を単純に合理主義の化身のようなものと考えるのは間違っています。これは割と誤解されやすい点です。

基本的に科学とは、⺠主主義とは異なる、アグリーメント(合意)の取り方のことです。その分、科学はお金も手間もかかります。例えば、今日の物理学で言ったら、200人以上の物理学者がこぞって同じ重力波を研究するというパターンになっている。

波頭 それでいうと、自然科学の世界でも、正しきことが代替わりするためには、大家が亡くなるのを待つしかありませんね。

イノベーションを起こした大家がいると、自然科学の世界ですら、新しい説が出てもすべて潰されてしまう状況がありますから。だから、上の世代が引退するまでイノベーションがほんどと起きないのです。これは科学が悪いのではなく、科学を人間が扱っていることに問題があるということです。

西川 アグリーメントという手続きをこなしていくのが人間だから仕方ありませんね。

波頭 結局、寡頭支配を説いたミヘルス、または官僚制の合理性と限界を説いたウェーバーにどうしても帰着するという壁にぶち当たり、その打開策はなかなか見つかりません。

人間が本性でもある俗物性や強欲性から解放されるためにAIが役⽴つかというと、そうとはいえないでしょう。では、どうすれば良いのかというと、再び人類が道徳や倫理を社会の原理としてインストールすることです。それが可能かどうかはわかりませんが、そこに人類の将来がかかっているのではないでしょうか。

西川 道徳や倫理を科学的にどう位置づけるかという問題もあるでしょう。先ほど、奇しくも17世紀の話が出ましたが、当時の思想界にはデカルトだけでなく、ライプニッツとスピノザがいました。

デカルトは、心と身体と言う二元論を唱え、精神から道徳や善悪まで、心の領域として神に任せて、科学的理解の及ばないものとしてしまいました。一方、スピノザやライプニッツは、心も体も統一して理解しようと試み、独自の哲学を発展させます。

生命科学者の目で見ると、スピノザの場合は人間の心も体も含めた全てを一つの自然の中で捉えた上で、今で言う脳科学的なイメージを持って道徳を考えようとしていました。また、ライプニッツのモナド論の場合、発生学者の様に、モナドから生成的に心と体の形成を捉えようとしています。

とはいえ、道徳や倫理の問題は、現在までその起源について科学的には説明できておらず、結局宗教や哲学の問題になっています。

ところが、神や宗教など人々を押し付けるものが今の時代ますます希薄になり、道徳や倫理は説明できないものとして、失われつつあるのではないでしょうか。すなわち、共通のアグリーメントが取れない領域になっています。

波頭 道徳こそ、もっとも複雑系だから説明できないのかもしれません。

西川 そうですね。生産関数、社会環境、人々の生活実態などによって道徳の関数は変わりますから。やはり極めて複雑系のテーゼに収斂するのが道徳です。現在の社会は、確かにそんな道徳を振り切って、経済合理性と自然科学合理性だけが暴走しているように見えます。

島田 道徳は共同体の思考から離れないと普遍的には定義できないものです。

なので、スピノザのエシックス(倫理学)はユダヤ教でもなく、キリスト教でもないという⽴場の中からしか⽴ち上がらなかったという事情もあるだけに、特定の道徳が普遍性を持つ世界が果たして構築されうるのかという疑問もあります。

ただ、⻄洋哲学(近代合理主義哲学)はスピノザから始まっているとも言えます。その意味では、道徳には哲学による思考の蓄積があります。

波頭 私がイーロン・マスク氏も結局社会的承認欲求が動機になっていると言った理由は、彼に限らず人は誰しも自分が支配したかったり、名声を得たかったりと、個人が強大になることを強烈に得ようとするからです。この承認欲求が、社会から道徳を壊してしまっている。

このとき、茂木さんのプレゼンに出てきた、アノニマス性(匿名性)を人類が尊重、リスペクトするようになったら、支配、名声、承認欲求の流れが変わるのかもしれません。

島田 匿名性とは真逆の「ハイル・ヒトラー」というナチスの掛け声みたいなものがすべてをダメにしてしまう。

波頭 人間は「ハイル・ヒトラー」のような個人賞賛に流れやすいものです。

島田 本来道徳とは、個人が孤⽴している状況でも、なおかつ他者と共有できるモラルやエシックスのことだと思うのですが、今の時代は基本、道徳的な路線にはまずなりません。ネトウヨの野合が典型ですが。

西川 その意味では、科学者はロマンティストと言えますね。

ポーランド出身で今はアメリカに住んでボノボ研究をしている動物行動学者、フランス・ドゥ・ヴァールは、ボノボとチンパンジーの行動を比べて、共通するルールを調べました。つまり彼はボノボとチンパンジーの差から道徳の起源を考えた。

彼は科学者ですが、それ以外の分野で道徳を考えている人は今の時代、ほとんどいません。私がスピノザを凄いと思うのは、「善悪とは好き嫌いだ」なととズバッと言ってしまう点です。そういう人間の底にある善悪や心のルーツから道徳も考えていくといいのかもしれません。

波頭 では、どうしたら人々は道徳心を持ち得るのでしょうか。道徳とは逆の個人の心の強大化は、もう行き着くところまで行って、破綻間際まで止まりそうにありません。最近では、それが加速している言質が社会に増えてきていると感じます。もし、本当にそうだとしたら絶望的です。

西川 そうですね。